正確に言えば出すものもあります。
例えばこういう研究がありますよという研究結果の論文や研究した人の名前は載せます。
それに対してその情報を自分はどこから拾ったのかというのはあまり言いません。
しかし情報を拾ったところを言う場面もあります。
それは論文であればCiNiiを使ったり検索(Googleを使って)などです。
他にはテレビ、まとめサイト、友達の口コミ、学校の授業など。
頭のいい人は自分がソースを言っているものとそうでないものの違いが分かると思います。
なんでしょうか???
考えてみてください。
答えは抽象度が高いのかそうでないかの違いです。
テレビで見たのは抽象度が高い、それに対してテレビの〇〇な情報を扱っている何チャンネルのあの番組のあの研究をしている先生から手に入れたとかはあまり言いません。
権威付けをするときは言いますけどね。
権威付けとはどういうときするかというと、自分の意見、発言の正当性を主張するために無知である大衆を信用させる時です。
自分より成功していて実績のあるイチロー選手が言っていた発言を何の成果も出していないニートが言ったとしても信頼はないので誰も信じないし、聞く耳を持ちません。
ですが、そのニートが「今自分が言った発言はイチロー選手が言った名言である。」
こう言ったらどうでしょうか?
説得力が増すし、ある程度信頼するでしょう。
「ああ、あのイチローが言ったなら納得だ。」と。
自分は違うというのはどうでもいいです。
あくまでそういう人が多いというわけであってマイノリティもいますので。
これで私は~~だ。と反論する人は協調性が低いです。
これを説明すると脱線しまくるので別記事に上げています。
→大衆はどういう人が多いのか言っているだけなのに自分にいちいち置き換えて反論するやつは脳に欠陥あんの?
じゃあなぜ抽象度が高いとソースを出して低いと言わないかというと、抽象度が高い情報にアクセスできるのは知識がある頭のいい人だけだからです。
それに対して具体度が高い抽象度が低い情報には馬鹿でもアクセスができます。
ここまで言っても通じない人は具体度が高くないと情報を処理できない程度の脳と知識しか蓄えていない愚かな人間だと自覚してください。
この言葉で説明すると、ある程度の知識があるとこのフレーズ。
「抽象度が高い情報にアクセスできる人間は頭がいい人、そうでない人は馬鹿である人。」
これだけで話が理解できますが、「抽象度」「情報」「アクセス」という単語を知らない人にとっては抽象度が高いため具体的にこれらの単語の意味をまた説明しなければなりません。
冒頭のことでいうといくら私がGoogleで調べた!論文サイトで見た!と言っても抽象度が高いのでどう調べたのか、どうやってその情報にたどり着いたのかは馬鹿な人だとやり方を知らないのでたどり付けません。
それに対して頭がいいとその情報とそのソースだけで調べ方が分かっているので情報先にたどり着けます。
なので知られてもいい場合は具体度が高くてもソースは言いますが知られたくない場合は抽象度が高くても言うかどうかはわかりません。
じゃあなぜ知られてもいい場面とそうでない場面ができるのかというと。
今は情報化社会。
なのであればその情報を使って収益化する。
では自分が提供側であるならば金を稼げるが、自分がここから学んだよ。と言ってしまったら顧客は自分ではなく自分が学んだ先に行ってしまうことになる。
そうなると情報提供者は困るわけですね。
なので肝心なことはいいません。言ったとてもソースを表示しないか、そのソースから次へ発展しない場合。
例えば論文一つだけ提示したって新しい情報にアクセスはできません。
論文は根拠の最終点、情報の最終点なのであまり言いたくないはずですけどね。
しかし次につながらないので言います、むしろ言わないことによって信頼を得られないことのほうのデメリットのほうが大きいので言いますね。
自分の場合はこのLINEpayの記事なんかは具体度高いけどその先に新しい情報を得る方法はないのでソース出していますね、(ソース出さないといけないですが)。
それに対して習慣化などの記事は抽象度高いですかね。
というわけでソースを出している場合と出していない場合にもその情報提供者はなぜそうしているのかというのが裏にあるわけです。
簡単に言うと欲しい情報、正しい情報を的確に提供してくれるコンテンツは教えない。
他は教えてもいいかな。けど場合によって言わない場合もあるという感じです。
↑この発言も結構抽象度高いですねw
なのでそこに気づかない、分からない人間は馬鹿なので、「なんでソースださないの?」という質問は馬鹿丸出しなので恥ずかしいですよ^^;
馬鹿が馬鹿であることに気づかないで、馬鹿な行為を善として行動してくるのが一番厄介^^;
以上。
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