2018年6月4日

当たり前のことができないゴミみたいな人間がいるからこそ、当たり前のことができる人間に感謝が出来る

今日は6時間青空の下で独り言というゲェジプレイをかましました。

こうしてしまうと日記になってしまうのでやめたいところ。


今日も特に思いつかない。

ここでわかった、幸福を感じるときって、一人でいるときはなかなかない。

なぜなら一人だと当たり前のことだから。


相手がいるからこそ、そこで初めて当たり前のことがそうじゃなかったということに良くも悪くも気づくことができるということだ。


例えば「ありがとう」という感謝を言ってくれる相手がいたら自分はめっちゃ幸福を感じます。
これはある人にとってはこれは当たり前のことかもしれないし、実際そうだと思います。

しかし現実問題実際に「ありがとう」を言える人の少なさと言ったらどうでしょう?


ほとんどの人が言いません。


そのほとんどの「ありがとう」を言えない集団の中に溶け込んでいると、当たり前の「ありがとう」を言うことができる人に出会うもう表現できないほどの喜びが込み上げてくるわけです。

だから良くも悪くも「ありがとう」で喜びを感じる場合、「ありがとう」を言えない人間に絡んでいることも要因で、それ故に「ありがとう」を言える相手がいたら喜びを感じることができるわけです。

当たり前のことかもしれないことに対して感謝できるわけですね。


ですので今日はあまり人と関わっていない、外は出たけど日焼けしただけなのであまり感じなかったわけです。


というわけで

1.シャワーを浴びることができること
2.コメントをしてくれること
3.勉強ができること

こじつけ



以上。

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