みんな理解した気になっているだけ。
物事を分解してなぜ?を突き止めていくと最後には説明がつかなくなっている。
そうなったらどうするか、そうなっているから。と覚えるしかない。つまり丸暗記するしかないのだ。
そうなったらどうするか、そうなっているから。と覚えるしかない。つまり丸暗記するしかないのだ。
Aという事象を理解するとき、前提知識としてBとCということを知っていなくてはならないとする。そういう場合でもBとCを分解していくとあるところで説明がつかなくなる。そうなるとそうなっているからという理由で丸暗記するしかなくなる。
1+1=2というのはそういうことになっているから、そういう決まりだからという理由で理解もクソもないのと同じである。ほとんどの人は1+1=2を説明されたらそれでらなぜか納得してしまう。しかしなぜ1+1は2になるのか、それを深堀しない限り理解したつもりで終わり、本当の理解には辿り着けない。
つまり前提知識を持ち合わせていたとしてもそれは空虚なものでしかなく、Aという事象をBとCを用いて説明され知ったところでそれは理解したことにはならず、理解した気になっているだけである。なぜならば前提知識の地盤がガクガクで強固なものではないからだ。
丸暗記はクソだという人達がいる。
しかしあなたのその知識、深堀りしたら丸暗記じゃないか?
丸暗記の上に成り立っている理解は、理解したと言えるのであろうか?
人間は言語を覚えてからそこから色々なことを覚えていくが、赤ん坊が「ママー」と初めて発することができたとするそのとき、赤ん坊はママという単語がなんなのか、またどういう理由でママという単語が自分の母親という意味になったのかなどを知った上で発しているか?
そうであれば既に天才であるし、そのママという単語の成り立ちも深堀りすればいずれ説明がつかなくなるのでそもそも不可能である。
赤ん坊はどうやらママという存在らしきものが「ママ」と発しているのでそれを真似しただけに過ぎず、ママという存在がママと言っているから、そうなってるから発しているだけである。
つまりあなたが持っている前提知識がすべて空虚なもので成り立っているのである。
根本的にある知識はすべて丸暗記で覚えたものであるにも関わらずそれを否定できるのか?
君たちがいう丸暗記がimport=輸入だというのであれば、理解して覚えるとはどういうものかと言うと接頭辞、接尾辞を覚えて、言葉の成り立ちをセットで覚えるような感じで、よく単語の核を覚えようなどと言われるかもしれない。
しかし、inなら中にという接頭辞だが、なぜinなら中という意味になるのかまで深掘りして覚えているか?大体はここでおしまいだ。これもそう。理解理解いってますが、根本は丸暗記です。inは中という接頭辞だと丸暗記を強いられているではないか。
じゃあ巷でいう丸暗記と理解は何が違うかというと、丸暗記はそれだけでしか知識としか使えず、理解ですると、他にも応用が使え、引き出しが多くなるということだ。例えるなら丸暗記は点でしかなく、理解は線であるということだ。
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